至大荘のあゆみ ~創立40周年誌より~
至大荘は勝浦市守谷にあって、本校生徒の遊泳の道場である。約2,000坪の敷地をようし、8棟の寮からなる。昭和2年、初代校長成田先生によって建設され、その年から、夏と冬の2回にわたる荘生活が実施された。戦争のため、若干の中断はあったが、今日も昔の精神に則り遊泳訓練がつづけられている。建物は昭和3年、14年に増設されたが、戦争のため、荒廃し、一部は消失したが、戦後の再開に伴い修理・増築が行われた。

至大荘全景(海側から)昭和39年5月

至大荘全景(山側から)昭和39年5月

至大荘全景

(至大荘開設時に書かれた生活の目的を左に示します。内容は下記のとおりです。)
生活の目的
学校生活の一部として規律正しく しかもはつらつ
たる気迫に満ちた生活訓練を行うのが目的で
ある その要点を示せば次のとおりである
一、雄大な大自然の下 遊泳を通じて若人の心身を
心ゆくまで鍛錬し たくましい敢闘精神を身
につけさせる
一、職員と生徒が寝食を共にし 行住坐臥闊達剛毅
協調互譲の精神を養う最もよい機会たらしめる
一、しかもこの間 おのずから高校生活の楽しさを味得し 本生活をして本校における意義深い思い出たらしめる
一中時代の至大荘
至大荘開設以前大正13年より臨海修養団は千葉県の白浜や興津の鵜原(同15年)にて行われたが昭和2年興津町守谷字畑尻に約2,000坪の土地を買収し(坪1円)5月に建築が開始され7月に完成された。その間各寮の名称が決定され至大荘第1回は昭和2年7月15日3・4年生、8月1・2年生全員出発し、冬季にも100名ほど参加している。各寮は集義寮(本部)天・地・正・大寮(生徒用)養気閣(食堂)観海亭、浴室であった。
昭和3年今の観海亭横に鉄桜寮、昭和14年秋嶽瀛寮が増設された。昭和18年より21年まで戦争の為に中断され、正寮には引揚者が入り、土地も一部農地解放された。
守谷湾

芙蓉ヶ浦
左図は1939年(昭和14年)当時の配置図です。
当時は角力場(すもう場)もあった。
A:集義寮 B:天 寮
C:地 寮 D:正 寮
E:大 寮 F:養気閣
G:浴 場 H:鉄桜寮
Ⅰ:観海亭 J:売 店
K:嶽瀛寮



鉄桜寮(上)と至大荘建設作業(左・左斜上) 昭和2年


2015年撮影の正門
後方は艇庫
正 門

北側のバスケットコート(後方建物は大寮)昭和10年頃

李王殿下をお迎えして -昭和13年8月6日ー
一中時代の至大荘生活
本校創立とともに、白浜や鵜原などで、すでに臨海生活がはじめられていたが、至大荘落成とともに、夏と冬と 2回にわたる本格的な訓練は開始されたのである。至大荘生活は、游泳訓練に止まらず、行住坐臥*すべてが訓練で、食事作法・作業・マラソン・行軍など本校独特な行事が多かった。
特に冬期のみそぎ・騎馬戦などはその最たるものである。当時の中学1年生に夏期20日間の訓練は、つらいものであったにちがいない。しかしそれだけに、今日実社会に出て、真に役立つ体験はこの生活をとおして得られたものではあるまいか。
(注)「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」とは、日常生活の基本行動のこと。行⇒歩く、住⇒立ち止まる、坐⇒すわる、臥⇒横たわる

両国駅集合
1928年(昭和3年)当時の中学1年生は13歳である。
親元を離れての長い集団生活を夏・冬送った。

夕食後のひととき
坊主頭に絣の着物・袴を身に着けた生徒たち

遊 泳

角 力

冬のみそぎ

マラソン

父兄招待会
両国駅から汽車で3時間、父兄の至大荘生活見。
着物姿にパラソルを差した母親たちが見える。




